4月の法語カレンダーについて

私は生まれがたき人としてこの世に生を受け、限りあるいのちを生きています。

仕事、勉学、人間関係、社会との関わりの中で、ついつい他人を妬んだり羨ましく思う気持ち、自分の置かれている環境を嘆いたり、病の縁をいただくなど、己の思いのままにはならないことばかり。

浄土真宗の教えに出会い、法を聞いたら私の境遇が激変するわけではなく、私の迷いや嘆きは続きます。置かれた状況で精一杯励んでも環境や因縁により結果がついてこないことがあります。それでも強く明るくしなやかにいきたいものです。

聞法をすると何か優れた人間になれるのではなく、逆に私とは何ぞや、自身の姿を知らされます。例えば太陽光に照らされると、空気中の塵や埃が見えてくるように、阿弥陀如来が私を照らして下さると煩悩具足の私の姿に気づかされます。

聞法とは親鸞聖人が説かれた阿弥陀如来の願い、はたらきを自分のこととして尋ねていくことだと思います。亡くなってからではなく、今、私の状況の如何によらず、如来は常にはたらいてくれていることを通い続けているとあらわした言葉ではないでしょうか。

念仏で救われることの意味を尋ねていきたい衆徒高安弘子の我聞です。